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「あら、こんばんは。のれんをかける前から待っていらっしゃるなんて、今夜はずいぶんとお早いですね。さあ、お入りください、用意はできていますから。

(間)

えっと......はい、まずはキャベツときゅうりの簡単な小鉢です。塩もみしたキャベツを輪切りにしたきゅうりと、シラス、刻んだ塩昆布で和えたものです。どうですか、いい味でしょう。私がこの道に入って初めて覚えた料理なんですよ。え、女将の作るものはなんでもおいしいですって?もう、おだてないでください。恥ずかしいです。でも、ありがとうございます。
これはそのお返し、今夜は特別、サービスですよ。飛騨高山(ひだたかやま)のおいしい地酒、『久寿玉(くすだま)』さんの生原酒(なまげんしゅ)です。高山の酒蔵のなかで最も歴史のあるところだと聞いています。それにこれ、いつみても売り切れで......。今回偶然購入できたんです。それで折角だから、お客さんがいるときにあけたかったんです(にっこり)。はい....っと。升いっぱいに注ぎましたよ。どうですか......?
......おいしい?よかったです(にっこり)。えぇ?私も?だめですよ、まだ営業はじめたばかりなんですから.....。む、開けていても誰も来ないんだからいいじゃないか、ですって?むむ....言ってくれますね.....。言い返せないのが余計に悔しいです。でも....そうですね、お客さんとならば、いいですかね.....。それでは、お言葉に甘えて.....。っく、っく.....。
はわ、おいしい....。お米の味がしっかりとしています。お米のもっている本来の甘さが、清らかな水と合わさって、のど越しもなめらかです....。
あ、そうでした。今日はもう一品、お客さんのために用意したのがあるのでした。これもこのお酒と一緒に購入したものなのですけれど.....こちら、飛騨牛の握りです。これは私、初めての試みで、私の友人にレシピを聞いて作ってみました。どうでしょう、お口にあいますか。
......おいしいですか!よかった....。友人が教えてくださったのは、こってりしたタレがついていたのですけれど、私は、塩コショウだけで味をつけてみました。どうやら成功だったようですね....!(にっこり)
えっ、お客さん急に何をおっしゃるのですか、女将のえくぼがかわいいなんて。おだててもなにも出ませんよ、ふふ。たとえそれが本当のことだとおっしゃられてもね。
....どうしました、そんなに神妙なお顔をされて。.....私がほんの数日前に別れた恋人に似ている....ですか。特にこのえくぼがそっくりだと。そうでしたか....お辛いですよね、心中お察しします.....。
....私が提言するのもお門違いですが、きっとその彼女さん、あなたと一緒にいられてとても幸せな時間を過ごされたのだと思いますよ。....お客さんは彼女さんを愛していたように、彼女さんもお客さんを愛していた。ただ、どこかでボタンを掛け違えてしまったのでしょうね.....。その掛け違いが次第に大きくなって、ほつれてしまった......。
よし、今夜はここでたくさん泣いてください。外(ほか)では泣けませんでしょう?ここで思う存分吐いていってください。....迷惑じゃないかって?いいえ、かまいません。お店は閉じますから、存分に泣いて、吐いて、すっきりしていってください。いくらでもお付き合いしますからね。


(間)


ふふ、お客さん、すっきりして眠られてしまいました。かわいい....まるで子供の様です。さて、明日に向けて仕込みをしなければ.....。それにお客さんの朝ごはんも作らなければいけませんしね.....ふふ...」

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